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法善寺は阿弥陀佛の本願を信じ南無阿弥陀佛と称え極楽往生を願うお寺です

TEL. 0287-29-3918

〒3240037 栃木県大田原市上石上72

法然上人


浄土宗を開かれた法然上人(ほうねんしょうにん)

1、誕生・父との死別(1〜9歳)

誕生
 法然上人は長承2年(1133)4月7日、美作の国、久米南条稲岡の庄(岡山県誕生寺)にお生まれになった。父は押領使を勤める漆間時国(うるまときくに)、母は秦氏の君(はたうじの君)。幼名を勢至丸と名づけられご両親や一族の深い寵愛を一身に受けすこやかに成長された。

父の死
 保延7年(1141)父の漆間時国公は日頃より反目していた敵方の預所、明石定明(あかしさだあきら)の夜襲にあい非業の死を遂げる。時国公は臨終間際に9歳の勢至丸へ「仇を討ってはならない。仇は恨みをよび憎しみは絶える事なく続くだろう。ならばお坊さんとなり父や人々を救う佛の道を探してほしい」と遺言を残し43歳で息を引きとってしまう。

2、出家・修学(9〜15歳)

叔父のもとへ
 漆間家は四散を余儀なくされ、勢至丸は追手の追撃を逃れるために母方の叔父観覚(かんがく)が住職を勤める菩提寺へ身をよせ佛教の手ほどきを受ける。6年あまりの修学で観覚は勢至丸の非凡な才能に気づき辺境の地に埋もれてしまうのは惜しいと考え当時の最高学府でもあった比叡山へ昇ることを勧める。

比叡山へ昇る
 久安3年(1147)母である秦氏の君は「かたみとて はかなき親のとどめてし この別れさえ またいかにせん」と詠み15歳の勢至丸が比叡山に昇る後ろ姿を見送り37歳の若さでこの世を去った。勢至丸は一度登叡すると12年は下山できない掟もあり悲しみにくれる間もなく学問修行に励まれた。最初の師である源光(げんこう)は自分の手に負える人物ではないとすぐさま勢至丸の器量を見抜き皇円(こうえん)へ入室を勧める。比叡山でも高名な皇円のもとで授戒の儀式をうけ正式な出家の身(僧侶)となる。

3、隠遁・求法(15〜43歳)

俗世を厭う志
 当時の比叡山は名聞利養、貴族のための佛教でもあり一般民衆は置き去りにされていた。勢至丸は世俗の喧騒を厭い、比叡山の中でも高僧が集う、より学問修行に適した黒谷へ隠遁する決意を固める。しかも黒谷青竜寺には全ての経典が書かれている「一切経」が収蔵されていた。「一切経」を読めば父の遺言にかなう佛の教えがあるはずだという思いを胸に皇円にいとまを告げ比叡山でも奥深い黒谷青竜寺叡空(えいくう)の門をたたく。

法然房源空
 久安6年(1150)叡空の弟子となった18歳の勢至丸は「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と絶賛され法然房という房号をもらう。又、最初の師源光と叡空から一字ずつとり源空という諱も授かった。そのため法然上人の正式名称は法然房源空(ほうねんぼうげんくう)という。

高僧を尋ね歩く
 保元元年(1156)24歳、嵯峨の清凉寺へ詣で求める教えが見つかるよう祈願する。その足で京都や奈良の有名寺院、各宗の本山やそのご住職に教えを尋ね歩いたが見つけることはできなかった。当時の事を法然上人は次のように述べている。「多くの智恵ある人に尋ね、多くの学者に問いかけたが、全ての人が救われる道を教えてくれる人もいなければ示す人もいなかった。嘆き嘆き又経蔵に入り、悲しみ悲しみ再びお経にむかうよりほかなかった。」

智慧第一の法然房
 法然上人は再び黒谷青竜寺に戻り厳しい修行をしながら「一切経」と向き合い学問にも励んでいった。比叡山での修学は28年もの長きにわたる。その間、常人では一生かかっても読破できないような膨大な量の「一切経」を5度にわたり読み返した。そのため「智慧第一の法然房」「ふかひろ(深くて広い智慧を持つ意)の法然上人」と名声ばかりが広がっていったが求める教えが見つからない法然上人の苦悩が晴れることはなかった。

4、浄土宗を開く(43歳)

善導大師に導かれて
 法然上人は「観経疏(かんぎょうしょ)」という中国の善導大師が書かれた書物を8度読み返した時「南無阿弥陀佛と称えれば全てのものが漏れなく救われる。なぜなら阿弥陀佛の本願だからである」という一文が光り輝いてあらわれた。夢の中で善導大師からもお墨付きを頂戴したこともあり「阿弥陀佛の誓い=本願念佛」のみが父の遺言にもかない全てのものが救われる道だと確信を得る。こうして長年の苦悩が晴れ、承安5年(1175)法然上人は浄土宗を開かれた。奇しくも父時国公が亡くなられたお年と同じ43歳、3月14日(善導大師のご命日)のことであった。
※令和6年(2024)は浄土宗を開かれて850年目の節目となる。

5、念佛の勧め(43〜66歳)

大原問答
 法然上人は比叡山を降り東山吉水(京都の円山公園付近)にお住まいになった。法然上人の小さな庵には本願念佛の教えを聞こうと民衆が連日群れをなす。燎原の火のように念佛の教えが広がると既存佛教教団からも注目されることになった。そのため比叡山や京都、奈良の各宗派から法然上人の教えの真偽を問いただそうと大原問答(おおはらもんどう)が行われる。一昼夜に及ぶ高僧達との激しい論戦は法然上人に軍配があがり「智慧第一」の誉れと「本願念佛の教え」は一層広がることになった。文治2年(1186)法然上人54歳のことである。

東大寺での講演
 当時の東大寺は源平合戦で灰燼に帰していた。そのため再建の任に法然上人が選ばれたが辞退したため俊乗房重源上人が勧進職についていた。法然上人は重源上人の請いをうけ再建途中の東大寺で「浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)」の講義をした。文治6年(1190)法然上人57歳のことである。

幅広い帰依者
 法然上人は求められれば身分に関係なく教えを説いた。上は高倉、後白河、後鳥羽の3人の天皇に授戒をされた。宮中では関白九条兼実はじめ多くの貴族関係者。又、熊谷直実や平重衡をはじめとした武士達。諸宗のお坊さんや弟子入りをしたお弟子達はいうに及ばず。下は盗賊や遊女にいたるまで、これ程身分の上下を越えて分け隔てなく平等に教えを説いたお坊さんは歴史上法然上人ただ一人である。

選択集
 宮中の実力者であった九条兼実は法然上人の絶大な庇護者であり帰依者であった。兼実は「念佛の教えは普段から承っているが心もとないこともあるので書物にしてほしい」と懇願する。そこで法然上人は1部16章からなる「選択本願念佛集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」略して選択集(せんちゃくしゅう)を書き上げた。建久9年(1198)法然上人66歳のことである。
※選択集は浄土宗において根幹をなす聖典として経典同様に読まれている。又法然上人が草稿された原本は京都盧山寺に蔵されている。

6、相次ぐ法難(67〜80歳)

元久の法難
 法然上人の教えとは異なる教え(念佛すれば全てゆるされる等)を、さも法然上人の教えのように吹聴してまわる僧も数多くあらわれた。そのため比叡山はその責任を法然上人にとらせようとする。当時の比叡山は朝廷をも動かすほど大きな権力を持っていた。無実の罪であったが、ことの収拾を図るため門弟たちの自粛を約束し法然上人と190余名の弟子達が署名した「七箇条制誡」を天台座主に送る。九条兼実の働きかけもあり大事に至らずに済んだ。元久の法難と呼ばれる。元久元年(1204)法然上人72歳のことである。

建永の法難
 しかし法然上人と浄土宗への弾圧は止むことがなく逆に厳しいものになっていった。奈良の興福寺をはじめとして全ての佛教教団から念佛の停止を奏上されるほど(興福寺奏状)激しさをましていく。運の悪いことに住蓮、安楽という弟子が後鳥羽上皇の女官であった鈴虫、松虫を無断で出家させてしまう。上皇の逆鱗に触れ両人は死罪、法然上人は四国へ流罪となった。建永の法難と呼ばれる。建永2年(1207)法然上人75歳のことである。

四国へ流罪
 度重なる弾圧に念佛の教えを説くことをやめてはどうかという弟子に「たとえ死刑にされるとも本願念佛の教えを説くことは決してやめない」と断固とした態度で戒めた。さらに「長年地方へ行って念佛の教えを説くことが願いだった。それが果たせるのも朝廷のお陰である。念佛の教えは止めようと思ってもひろがることだろう。」と話され四国の行く先々で教えを説いていった。

7、極楽往生(80歳)

御遺言の一枚起請文と極楽往生
 流罪も許され5年ぶりに京都に戻られる。吉水の庵は荒廃していたので大谷の庵(今の知恩院)にお住まいになったが高齢と所労のため床につくことが多くなった。亡くなる2日前、横になりながら念佛を称える法然上人に弟子の勢観房源智(せいかんぼうげんち)上人が形見に一筆書き残し下さいと懇願する。そうして書き上げられたのが念佛の要諦、浄土宗の肝要「一枚起請文」である。現在の浄土宗においても法然上人のご遺言としてお経と同様にお読みするものである。
 建暦2年(1212)正月25日の正午、頭北面西にして「光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨」のお経を称え、眠るように極楽に往生された。80年のご生涯であった。お墓は京都の知恩院にある。

 法善寺は法然上人が示された本願念佛の教えを正しく受け継ぐお寺である。



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